明治新政府は、江戸時代の蘭学一辺倒の姿勢を改め、広く西洋医学の受け入れを図りました。当時の世界に冠たるドイツ医学を採用、医学校、大学の拡充をめざしました。
臨床検査の分野でも、多くの新しい知識が入ってきました。1880(明治13)年6月に学術誌の「中外医事新報」に掲載された「血球ノ説」は、日本の血球数算定法の草分けと言えます。その2年後に出版された医学者・足立寛の講述録「顕微鏡検査指針」には、病理組織を検査するための切片の作り方、染色の手法が記されています。
明治期に、臨床検査技術者が注目されるようになった背景には、疫病の大流行が挙げられます。
1879年にはコレラの大流行で、死者が10万人を超えました。’93年には、天然痘により約1万1千人、赤痢により約4万1千人が亡くなり、翌’94年にも赤痢で3万8千人余りの死者が出ました。発疹チフスやペストも流行しました。
新しい教育を受けた医師、看護師らが、避病院(明治時代の伝染病専門病院)などで治療に奔走しました。そして、医師以外にも細菌検査をできる技術者の需要が高まり、現在の臨床検査技師の原形ができていったのです。